i)1893~1905(明治26~38)年頃の間、は、地名にちなんで「平田ナイフ」が製造されていた
ii)平田ナイフは(今でいう)肥後守とは異なり、西洋ナイフに近いものだったが、これにもすでに「肥後守」の文字が打たれていた
iii)1905(明治38)年頃、平田ナイフにかわって「肥後守」が生産されるようになった
iv)「なぜ肥後守か」という名の由来を推理するより、「肥後守と名づけてから」どのようにこだわりを持ち続けてきたか、ということに意味がある
v)すなわち、粗製濫造を防ぎ結束して肥後守の品質を守った姿勢は高く評価されるべきである
vi)刃物追放運動は明らかに誤った運動であった
3 販路の拡張
こうして生まれた肥後守は、三木の金物問屋がひたすら販路の拡張につとめ、次第に肥後守の名も刃物のなかで大きな位置をしめるようになりました。
そして1918(大正7)年、「東京市牛込の水谷兄弟商會の主人が突然當地へ遣つて来て」10万丁もの肥後守を注文。一時に大量の注文を受け、短期間で間に合わせることは非常に難しく、誰もがしり込みするなか、永尾重次氏が思いきって引き受けることに。周囲の同業者にも製造を依頼し、契約通りに製造することができたのです。
この肥後守10万丁は、水谷兄弟商會が「多數の賣り子を全國に派遣して、實物宣傳の特殊方法で賣り廣め」ました。販売成績は非常に良く、一月あたり1万丁ほどを売りさばき、約6、7年にもおよんだということです。このようにして肥後守は年をおって巨大産業にふくれあがりました。そして昭和3年頃には年産約20万円にもするに至ったのです。
6 肥後守組合
小西勝次郎によれば、「肥後守ナイフ組合」は1899(明治32)年に設立されました。当初は平田、大村にかけて数戸を数えるほどに過ぎなかったのがその後増加、1928(昭和3)年には34戸、その従業員数はおよそ200名にのぼるようになったようです。
ここでおや、とおかしな事に気づきませんか。肥後守は1904(明治37)年頃にできたはずでは? おそらく、1899(明治32)年にできたのは「平田ナイフ」の製造業組合で、「平田ナイフ」がそのまま「肥後守ナイフ組合」に移ったのではないでしょうか。ただ、「平田ナイフ」に「肥後守」の銘を打ち込んでいたようなので、もしかしたら平田ナイフの時代にそれを別名(通称)として「肥後守」と称していたのかもしれませんね。
組合の初代組合長は阿部松平氏、次に永尾重次氏、村上貞治氏、藤田菊松氏とつづきます。
ここで、肥後守組合の証書を見てみましょう。正式な組合名称は、「肥後守洋刀製造業組合」。
組合の主旨をみると、「一致協力」および「粗製濫造を防止」することが、とりわけ強く主張されています。
これは、明治期に全国各地を行脚し、その地場産業振興に努めた前田正名の影響かと考えられます。『興業意見』(巻十六、地方二)において前田は、三木の刃物業が衰運に向かっていることを指摘し、次のような方策をとることを説いています。
一、職工及刃物商一致団結シ、取締方法ヲ設クル事。
一、物品ノ改良ヲ図リ、粗製濫造ヲ禁止シ、需要者ノ信用ヲ恢復スル事。
洋鋼製の安い刃物を和鋼製のように高く販売して信用を落としたことや、粗製濫造で平田ナイフの信用を落としたことなどを振りかえると、まさにぴたりと当てはまる指摘といえます。
そういった反省をふまえての組合成立であったと考えると、肥後守の品質が単なる「安いナイフ」ではすまされないことがわかります。
かつて、いや現代でも、全国各地、どこへ行っても、肥後守型ナイフはすべて「肥後守」という名で通っています。たとえそこに刻まれているのが「肥後○○」というものでも、あるいはまったく違う名前でも。そこには、製品(品質)の統一への製造業者たちの思いがあったからこそ、「肥後守」という統一名称-ナイフの代名詞として-が生まれた、という見方ができます。つまり、「肥後守」という名称は播州とはなんの関係もないものですが、製品の質に対する働きかけは非常に評価されるべきものであったといえます。
4 技術的変化
肥後守のコスト引き下げに貢献したのは阿部正平の焼き入れ法と梶一夫の成型法の新しい手法の考案によるものとされます。肥後守はその値段の安さが特徴であり、他の刃物以上に、少しでも合理化、効率化を求めていきました。
阿部氏は、刃をまるごと加熱、急冷して焼き入れをするのではなく、木炭やコークスの粒をそろえて(10~12ミリ)刃先の1~2ミリの部分だけを焼き入れする方法を考えました。日本刀では泥の厚さで焼き入れ具合を調整しますが、その応用です。この方法により、全鋼でも割込鋼のような効果が得られるため、手間のかかる割込はすたれていきました。
梶氏の方は、それまで一本一本火造りで成形していたのを、プレスで型抜きした鋼材を研削砥石(グラインダー)で成形するようにしました。
当時はまだモーターが普及していなかったのでフイゴや水車を用いていましたが、やがてモーターの普及とともに当たり前の手法となりました。しかし、この近代的な製造法も、当初は「研磨機でないふを研磨した者は、組合から除名する」と騒がれたようです。というのは、研磨機を使うとその熱で焼きが戻るためナイフの切れ味が悪くなり、評判が下がるから、というわけでした。それでも大正から昭和になると、次第に研磨機を使うようになっていくのです。
このほか、1921(大正10)年頃、小阪弥三郎氏が鞘を縦折から横折にしたことは、その後の肥後守の形態に非常に大きな影響をあたえました。縦折鞘と横折鞘については別のページで紹介します。
刃物追放運動以後になると、焼き入れが水焼き入れから油焼き入れにかわります。水焼き入れでは反りが非常に強くなり、焼き割れなども起こりやすかったのが、油焼き入れでは変形量が少なく、焼き割れも起こりにくい。水よりも油の方が、微妙な温度調整を必要としないため、焼き入れが楽なのだそうです。
7 刃物追放運動の高まりとその後
さて、時は流れて昭和30年代。ナイフによる青少年犯罪が増加し、社会問題化します。そしてついに1960(昭和35)年10月、社会党委員長浅沼稲次郎氏が、演説中に右翼少年に刺殺されるという事件が起こり、これを契機に「刃物追放運動」が全国規模で広がっていきました。さらにその2年後の1962(昭和37)年には、「銃砲刀剣所持取締法」が規制強化の方向で改正。とにかく刃物は危険である、という論調が盛んでした。
こうしたなかで、肥後守業者の間では、生き残りをかけて「安全な」ナイフづくりのアイデアが練られました。もちろん、肥後守業者のみならず、ナイフ業者は全国すべてにおいて打撃を受けたのです。
その頃、手回し式の鉛筆削り器が登場し、急速に電動化。鉛筆を差し込めばそれで鉛筆が削れてしまうというものですね。電動鉛筆削りの普及は、完全にナイフを遠い彼方へ追いやることとなりました。また近年はシャープペンシルなど、鉛筆以外の筆記具も普及しました。
このような自動化、電動化の流れの一方で、ナイフを使うことの重要性に目を向ける動きもありました。暮らしの手帖第II世紀52号では花森安治が、日本中のたいていの小学校が各教室ごとに1、2台の鉛筆削り器を設置していることを憂えるレポートを発表し、同第II世紀59号には220本の肥後守を対象に商品テストを行い、脱電動鉛筆削り器を唱えています。
2 創造
そこでいよいよ「肥後守ナイフの創造」です。
肥後守誕生に関する諸説をあげてみましょう。
(1)小西勝次郎の説
「其の後明治三十七年頃に至り、故重松太三郎氏は取引先きの鹿兒島から見本として二本のナイフを持つて」帰ってきた。重松太三郎は当時、重松商店という刃物問屋を営んでおり、取引で各地へ出かける機会も多かった。「重松氏は日頃取り引きをして居る永尾重次氏に會ひ」、その見本のナイフを見せて「此格好に拵へて呉れまいかと相談」した。
「打ち見た所是迄製造したナイフとは大した相違もなく、改良すれば一層優良品を製造し得ると信じ」た重次氏は「其の製造を引き受くると共に、形に於ても切味に於ても相當の苦心を拂ひ、之に肥後守の銘を打ち込んで重松氏へ提出した」。
(2)村上泰堂氏(肥後守をつくり出した村上九郎衛門氏の孫にあたる)の説
「明治27年の春」、「金物問屋、重松商店と染抜き襟の小倉の厚司(あつし:木綿織物の一種)に紺の前垂れ掛けの男が」村上氏の所を訪れた。
肥後守以前のものは、「丁度小刀を鞘にかしめた様なもので、少し力を入れると刃が後ろへ廻って鞘の中へ這入って了ふので甚だ不便」なものだった。
やはり鞘にはハンドルの役目はなかったのかもしれません。
改良点のアイデアを練っていたときに聞いていた機織りの音から、紡織機のチキリ(滕、経糸を巻く中央がくびれた棒状のもの)を応用することを考えついた。その後、「日清戦争の関係もあり、注文が殺到した」。
「ところが或時、この商標をこっそり登録申請して、商標権の独占を企てた人が出来て、すったもんだの末に三木洋刀製造業組合の聨合商標にして組合員のみが使用して現在に」至っている。
戦争で需要がのびたということは、純粋に子どもの道具というのではなく、軍需目的という役割もあったのでしょうか(柳家こさんは「軍隊でもそういうもの(肥後守)をくれる」と、ナイフマガジン誌のインタビューに答えている)。
(3)小田慎次氏(元三木市金物資料館)の説
「明治27年11月、三木市中町の金物商重松大三郎氏と、平田町の鍛冶職村上貞治氏が熊本へ旅をした時、」ナイフを作っているところを見て、「二人はその品物を頂戴。三木に持ち帰り工夫、考案し」て肥後守ができあがったという。
(4)井本由一氏の説
「明治29年頃重松太三郎氏が熊本よりナイフを持ち帰り、平田の村上貞治らに作ることをすすめた。熊本でなく久留米からだとの説もある。」見本となったものは「刃の固定しない不安定なもの」で、村上貞治が尾をつけた。はじめは輸入鋼を割り込み鍛接した高級品で、「鞘に軍艦や松に日の出などの彫刻が施され」ており、美しいものだった。
おそらく、1894(明治27)年頃に三木でナイフをつくり始めた、ということは間違いないことでしょう。ただし、その時のナイフはごく普通のロック機構つきのポケットナイフで、それが下火になってきたことで新しく、新商品として投入したのが肥後守であったと考えられます。その出所については九州地方と考えるのが妥当のようですが、そう断言することはできません。重松太三郎氏は商人として全国を行脚していて、その行商先は九州以外にもたくさんあったし、そもそも九州に肥後守に似たナイフをつくっていたという記録もないからです。
重松太三郎氏は、明治はじめに金物商を営み、1887(明治20)年に電気事業を興し、阪神電車社長に就任、日清戦争の頃に共同で三木金物組合商會(後の地球株式会社)を創立しました。死後30年ほど過ぎた1952(昭和27)年に、兵庫県より郷土産業に貢献した功労者として表彰を受けています。これは第2次大戦後、独立日本を記念して県下12人を選出した際に選ばれたもので、その時の文章は以下のようです。 「滅私愛郷の崇高なる精神に基いて産業の振興による住民福祉の増進に力を注ぎ特にスコツプ並にナイフの改良に力を致し、同志相協力してよく業界今日の隆盛の基盤を確立し、三木金物の発展に盡し、その業績極めて顕著にして、産業經濟の確立による地方自治の昂揚に貢献せられたので、こゝに講和發効新生日本の門出に當り追賞する。」
「ナイフの改良」とは、いうまでもなく肥後守のことですね。
1 その起源
肥後守は、明治時代中期、九州ではなく兵庫県三木市(当時は美嚢郡三木町)でつくられ始めました。
肥後守が文献に登場する最も古いものとして、1928(昭和3)年発行の『播州特産金物發達史』を、ひもといてみましょう。
「平田ナイフの起源」という項目です。
「明治二十六七年頃、美嚢郡久留美村字平田に初めてナイフが製造されました。それは現在ナイフの製造に從事して居られる村上貞治氏の先代で、實際製造に着手されたのは先代の晩年のことでありました」。ついで永尾駒太郎氏もこれに続き、2~3年の間に製造業者は4~5名に増えたということです。ちなみに、この「村上貞治氏の先代」とは村上九郎衛門で、文中にあるとおり、三木のナイフ生産の先駆的人物です。
ここで述べられている「ナイフ」とは、「肥後守」ではなく、あくまでも「平田ナイフ」なのですが、「當時のナイフの刄部は鋼を鐵に割り込み、充分鍛錬して製作したもので、鞘は鎭鍮及び鐵を用ゐ、其半面には様々の彫刻を施しました。例へば人物、馬匹、花鳥、風景と云ふ風に、緻密で巧妙な彫刻を施し、他の半面には和泉守とか、或は肥後守某とか、或は様々の銘を彫り着けたものです」。つまり、現代でいう「肥後守」が生まれる以前の「平田ナイフ」にも、すでに「肥後守」と打たれていたということです。
残念ながら現在、この「平田ナイフ」は残されていません。というより、どういったナイフが平田ナイフなのかさえわからないのです。しかし肥後守と明確に分けて「平田ナイフ」と記されている以上、肥後守とははっきりとした違いのある、おそらく関などでつくられていたナイフと同様の(つまりロック機構のついた)ポケットナイフだったと思われます。
この「平田ナイフ」は明治33年の北清事変の頃には製造者も14~15名にのぼり生産数も増大しますが、粗製濫造から評判を落としてしまいます。
そこでいよいよ「肥後守ナイフの創造」です。
肥後守誕生に関する諸説をあげてみましょう。
5 「肥後守」という名称・登録商標
それにしても、やはり、なぜ「肥後守」なのか。その名称に関する疑問は晴れません。
明治9年の廃刀令で刀剣類は厳しく規制されていってもなお、当時はまだ刃物に対する思い入れが強く残っていた時代である。
「最初に熊本から持ちかへったものに、肥後某とあったから大方は熊本製品で、肥後守清正公から考へついた商標ではなかったかと思われる。」と、村上泰堂氏がいうように「胴田貫」として知られる肥後の名刀にあやかって名づけられ、そのまま定着した、とみるのが正解なのではないでしょうか。
いずれにしろ、「肥後守」は1910(明治43)年に商標登録がなされました。競合相手が増え、「肥後守」のブランドイメージを壊さないために商標を登録して保護を図ったというわけです。ところが、1964(昭和39)年11月11日の神戸新聞に、肥後守の元祖名乗りでる、という記事が掲載されました。
それによると、明治44年に井上仁三郎が23歳の時に肥後守型ナイフとして考案したとのこと。「加東守」の銘を入れた肥後守を製造し、その後三木の鍛冶が「肥後守」を生んだというのですが、これが誤りであることはすぐにおわかりですね。なにしろ「肥後守」はその時すでに商標登録されていたのですから。
小野は三木と同様に肥後守などのナイフの産地です。ナイフ以外にも、もちろん播州鋸、播州鎌、播州鋏など刃物業が盛んな地で、そもそも三木も小野も同じ地域だともいえます。