1 その起源

 肥後守は、明治時代中期、九州ではなく兵庫県三木市(当時は美嚢郡三木町)でつくられ始めました。
 肥後守が文献に登場する最も古いものとして、1928(昭和3)年発行の『播州特産金物發達史』を、ひもといてみましょう。
 「平田ナイフの起源」という項目です。
 「明治二十六七年頃、美嚢郡久留美村字平田に初めてナイフが製造されました。それは現在ナイフの製造に從事して居られる村上貞治氏の先代で、實際製造に着手されたのは先代の晩年のことでありました」。ついで永尾駒太郎氏もこれに続き、2~3年の間に製造業者は4~5名に増えたということです。ちなみに、この「村上貞治氏の先代」とは村上九郎衛門で、文中にあるとおり、三木のナイフ生産の先駆的人物です。
 ここで述べられている「ナイフ」とは、「肥後守」ではなく、あくまでも「平田ナイフ」なのですが、「當時のナイフの刄部は鋼を鐵に割り込み、充分鍛錬して製作したもので、鞘は鎭鍮及び鐵を用ゐ、其半面には様々の彫刻を施しました。例へば人物、馬匹、花鳥、風景と云ふ風に、緻密で巧妙な彫刻を施し、他の半面には和泉守とか、或は肥後守某とか、或は様々の銘を彫り着けたものです」。つまり、現代でいう「肥後守」が生まれる以前の「平田ナイフ」にも、すでに「肥後守」と打たれていたということです。
 残念ながら現在、この「平田ナイフ」は残されていません。というより、どういったナイフが平田ナイフなのかさえわからないのです。しかし肥後守と明確に分けて「平田ナイフ」と記されている以上、肥後守とははっきりとした違いのある、おそらく関などでつくられていたナイフと同様の(つまりロック機構のついた)ポケットナイフだったと思われます。
 この「平田ナイフ」は明治33年の北清事変の頃には製造者も14~15名にのぼり生産数も増大しますが、粗製濫造から評判を落としてしまいます。
 そこでいよいよ「肥後守ナイフの創造」です。
肥後守誕生に関する諸説をあげてみましょう。