そこでいよいよ「肥後守ナイフの創造」です。
肥後守誕生に関する諸説をあげてみましょう。
(1)小西勝次郎の説
「其の後明治三十七年頃に至り、故重松太三郎氏は取引先きの鹿兒島から見本として二本のナイフを持つて」帰ってきた。重松太三郎は当時、重松商店という刃物問屋を営んでおり、取引で各地へ出かける機会も多かった。「重松氏は日頃取り引きをして居る永尾重次氏に會ひ」、その見本のナイフを見せて「此格好に拵へて呉れまいかと相談」した。
「打ち見た所是迄製造したナイフとは大した相違もなく、改良すれば一層優良品を製造し得ると信じ」た重次氏は「其の製造を引き受くると共に、形に於ても切味に於ても相當の苦心を拂ひ、之に肥後守の銘を打ち込んで重松氏へ提出した」。
(2)村上泰堂氏(肥後守をつくり出した村上九郎衛門氏の孫にあたる)の説
「明治27年の春」、「金物問屋、重松商店と染抜き襟の小倉の厚司(あつし:木綿織物の一種)に紺の前垂れ掛けの男が」村上氏の所を訪れた。
肥後守以前のものは、「丁度小刀を鞘にかしめた様なもので、少し力を入れると刃が後ろへ廻って鞘の中へ這入って了ふので甚だ不便」なものだった。
やはり鞘にはハンドルの役目はなかったのかもしれません。
改良点のアイデアを練っていたときに聞いていた機織りの音から、紡織機のチキリ(滕、経糸を巻く中央がくびれた棒状のもの)を応用することを考えついた。その後、「日清戦争の関係もあり、注文が殺到した」。
「ところが或時、この商標をこっそり登録申請して、商標権の独占を企てた人が出来て、すったもんだの末に三木洋刀製造業組合の聨合商標にして組合員のみが使用して現在に」至っている。
戦争で需要がのびたということは、純粋に子どもの道具というのではなく、軍需目的という役割もあったのでしょうか(柳家こさんは「軍隊でもそういうもの(肥後守)をくれる」と、ナイフマガジン誌のインタビューに答えている)。
(3)小田慎次氏(元三木市金物資料館)の説
「明治27年11月、三木市中町の金物商重松大三郎氏と、平田町の鍛冶職村上貞治氏が熊本へ旅をした時、」ナイフを作っているところを見て、「二人はその品物を頂戴。三木に持ち帰り工夫、考案し」て肥後守ができあがったという。
(4)井本由一氏の説
「明治29年頃重松太三郎氏が熊本よりナイフを持ち帰り、平田の村上貞治らに作ることをすすめた。熊本でなく久留米からだとの説もある。」見本となったものは「刃の固定しない不安定なもの」で、村上貞治が尾をつけた。はじめは輸入鋼を割り込み鍛接した高級品で、「鞘に軍艦や松に日の出などの彫刻が施され」ており、美しいものだった。
おそらく、1894(明治27)年頃に三木でナイフをつくり始めた、ということは間違いないことでしょう。ただし、その時のナイフはごく普通のロック機構つきのポケットナイフで、それが下火になってきたことで新しく、新商品として投入したのが肥後守であったと考えられます。その出所については九州地方と考えるのが妥当のようですが、そう断言することはできません。重松太三郎氏は商人として全国を行脚していて、その行商先は九州以外にもたくさんあったし、そもそも九州に肥後守に似たナイフをつくっていたという記録もないからです。
重松太三郎氏は、明治はじめに金物商を営み、1887(明治20)年に電気事業を興し、阪神電車社長に就任、日清戦争の頃に共同で三木金物組合商會(後の地球株式会社)を創立しました。死後30年ほど過ぎた1952(昭和27)年に、兵庫県より郷土産業に貢献した功労者として表彰を受けています。これは第2次大戦後、独立日本を記念して県下12人を選出した際に選ばれたもので、その時の文章は以下のようです。 「滅私愛郷の崇高なる精神に基いて産業の振興による住民福祉の増進に力を注ぎ特にスコツプ並にナイフの改良に力を致し、同志相協力してよく業界今日の隆盛の基盤を確立し、三木金物の発展に盡し、その業績極めて顕著にして、産業經濟の確立による地方自治の昂揚に貢献せられたので、こゝに講和發効新生日本の門出に當り追賞する。」
「ナイフの改良」とは、いうまでもなく肥後守のことですね。