3 販路の拡張

 こうして生まれた肥後守は、三木の金物問屋がひたすら販路の拡張につとめ、次第に肥後守の名も刃物のなかで大きな位置をしめるようになりました。
 そして1918(大正7)年、「東京市牛込の水谷兄弟商會の主人が突然當地へ遣つて来て」10万丁もの肥後守を注文。一時に大量の注文を受け、短期間で間に合わせることは非常に難しく、誰もがしり込みするなか、永尾重次氏が思いきって引き受けることに。周囲の同業者にも製造を依頼し、契約通りに製造することができたのです。
 この肥後守10万丁は、水谷兄弟商會が「多數の賣り子を全國に派遣して、實物宣傳の特殊方法で賣り廣め」ました。販売成績は非常に良く、一月あたり1万丁ほどを売りさばき、約6、7年にもおよんだということです。このようにして肥後守は年をおって巨大産業にふくれあがりました。そして昭和3年頃には年産約20万円にもするに至ったのです。