肥後守のコスト引き下げに貢献したのは阿部正平の焼き入れ法と梶一夫の成型法の新しい手法の考案によるものとされます。肥後守はその値段の安さが特徴であり、他の刃物以上に、少しでも合理化、効率化を求めていきました。
阿部氏は、刃をまるごと加熱、急冷して焼き入れをするのではなく、木炭やコークスの粒をそろえて(10~12ミリ)刃先の1~2ミリの部分だけを焼き入れする方法を考えました。日本刀では泥の厚さで焼き入れ具合を調整しますが、その応用です。この方法により、全鋼でも割込鋼のような効果が得られるため、手間のかかる割込はすたれていきました。
梶氏の方は、それまで一本一本火造りで成形していたのを、プレスで型抜きした鋼材を研削砥石(グラインダー)で成形するようにしました。
当時はまだモーターが普及していなかったのでフイゴや水車を用いていましたが、やがてモーターの普及とともに当たり前の手法となりました。しかし、この近代的な製造法も、当初は「研磨機でないふを研磨した者は、組合から除名する」と騒がれたようです。というのは、研磨機を使うとその熱で焼きが戻るためナイフの切れ味が悪くなり、評判が下がるから、というわけでした。それでも大正から昭和になると、次第に研磨機を使うようになっていくのです。
このほか、1921(大正10)年頃、小阪弥三郎氏が鞘を縦折から横折にしたことは、その後の肥後守の形態に非常に大きな影響をあたえました。縦折鞘と横折鞘については別のページで紹介します。
刃物追放運動以後になると、焼き入れが水焼き入れから油焼き入れにかわります。水焼き入れでは反りが非常に強くなり、焼き割れなども起こりやすかったのが、油焼き入れでは変形量が少なく、焼き割れも起こりにくい。水よりも油の方が、微妙な温度調整を必要としないため、焼き入れが楽なのだそうです。