それにしても、やはり、なぜ「肥後守」なのか。その名称に関する疑問は晴れません。
明治9年の廃刀令で刀剣類は厳しく規制されていってもなお、当時はまだ刃物に対する思い入れが強く残っていた時代である。
「最初に熊本から持ちかへったものに、肥後某とあったから大方は熊本製品で、肥後守清正公から考へついた商標ではなかったかと思われる。」と、村上泰堂氏がいうように「胴田貫」として知られる肥後の名刀にあやかって名づけられ、そのまま定着した、とみるのが正解なのではないでしょうか。
いずれにしろ、「肥後守」は1910(明治43)年に商標登録がなされました。競合相手が増え、「肥後守」のブランドイメージを壊さないために商標を登録して保護を図ったというわけです。ところが、1964(昭和39)年11月11日の神戸新聞に、肥後守の元祖名乗りでる、という記事が掲載されました。
それによると、明治44年に井上仁三郎が23歳の時に肥後守型ナイフとして考案したとのこと。「加東守」の銘を入れた肥後守を製造し、その後三木の鍛冶が「肥後守」を生んだというのですが、これが誤りであることはすぐにおわかりですね。なにしろ「肥後守」はその時すでに商標登録されていたのですから。
小野は三木と同様に肥後守などのナイフの産地です。ナイフ以外にも、もちろん播州鋸、播州鎌、播州鋏など刃物業が盛んな地で、そもそも三木も小野も同じ地域だともいえます。