小西勝次郎によれば、「肥後守ナイフ組合」は1899(明治32)年に設立されました。当初は平田、大村にかけて数戸を数えるほどに過ぎなかったのがその後増加、1928(昭和3)年には34戸、その従業員数はおよそ200名にのぼるようになったようです。
ここでおや、とおかしな事に気づきませんか。肥後守は1904(明治37)年頃にできたはずでは? おそらく、1899(明治32)年にできたのは「平田ナイフ」の製造業組合で、「平田ナイフ」がそのまま「肥後守ナイフ組合」に移ったのではないでしょうか。ただ、「平田ナイフ」に「肥後守」の銘を打ち込んでいたようなので、もしかしたら平田ナイフの時代にそれを別名(通称)として「肥後守」と称していたのかもしれませんね。
組合の初代組合長は阿部松平氏、次に永尾重次氏、村上貞治氏、藤田菊松氏とつづきます。
ここで、肥後守組合の証書を見てみましょう。正式な組合名称は、「肥後守洋刀製造業組合」。
組合の主旨をみると、「一致協力」および「粗製濫造を防止」することが、とりわけ強く主張されています。
これは、明治期に全国各地を行脚し、その地場産業振興に努めた前田正名の影響かと考えられます。『興業意見』(巻十六、地方二)において前田は、三木の刃物業が衰運に向かっていることを指摘し、次のような方策をとることを説いています。
一、職工及刃物商一致団結シ、取締方法ヲ設クル事。
一、物品ノ改良ヲ図リ、粗製濫造ヲ禁止シ、需要者ノ信用ヲ恢復スル事。
洋鋼製の安い刃物を和鋼製のように高く販売して信用を落としたことや、粗製濫造で平田ナイフの信用を落としたことなどを振りかえると、まさにぴたりと当てはまる指摘といえます。
そういった反省をふまえての組合成立であったと考えると、肥後守の品質が単なる「安いナイフ」ではすまされないことがわかります。
かつて、いや現代でも、全国各地、どこへ行っても、肥後守型ナイフはすべて「肥後守」という名で通っています。たとえそこに刻まれているのが「肥後○○」というものでも、あるいはまったく違う名前でも。そこには、製品(品質)の統一への製造業者たちの思いがあったからこそ、「肥後守」という統一名称-ナイフの代名詞として-が生まれた、という見方ができます。つまり、「肥後守」という名称は播州とはなんの関係もないものですが、製品の質に対する働きかけは非常に評価されるべきものであったといえます。