さて、時は流れて昭和30年代。ナイフによる青少年犯罪が増加し、社会問題化します。そしてついに1960(昭和35)年10月、社会党委員長浅沼稲次郎氏が、演説中に右翼少年に刺殺されるという事件が起こり、これを契機に「刃物追放運動」が全国規模で広がっていきました。さらにその2年後の1962(昭和37)年には、「銃砲刀剣所持取締法」が規制強化の方向で改正。とにかく刃物は危険である、という論調が盛んでした。
こうしたなかで、肥後守業者の間では、生き残りをかけて「安全な」ナイフづくりのアイデアが練られました。もちろん、肥後守業者のみならず、ナイフ業者は全国すべてにおいて打撃を受けたのです。
その頃、手回し式の鉛筆削り器が登場し、急速に電動化。鉛筆を差し込めばそれで鉛筆が削れてしまうというものですね。電動鉛筆削りの普及は、完全にナイフを遠い彼方へ追いやることとなりました。また近年はシャープペンシルなど、鉛筆以外の筆記具も普及しました。
このような自動化、電動化の流れの一方で、ナイフを使うことの重要性に目を向ける動きもありました。暮らしの手帖第II世紀52号では花森安治が、日本中のたいていの小学校が各教室ごとに1、2台の鉛筆削り器を設置していることを憂えるレポートを発表し、同第II世紀59号には220本の肥後守を対象に商品テストを行い、脱電動鉛筆削り器を唱えています。